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心の波風
人は死ぬまで自分自身が"原因"として善かれ悪しかれ"結果"を否が応でも生産し続けているわけです。
自分自身の心の働き・運び方次第によって自分自身の心と身の置き処に必ず掛かる結果の波風は荒くもなれば穏やかにもなるわけです。
結果に対して原因とは、自分自身の心の変動が無ければ波風が立たない状態、"動きの無い水・止水"でしょうけど、俗世に於いてなかなか常に心を止水の様にするには難行苦行です。
風が無い月夜の池は"原因"である自分自身の心に例えて、その池に自分自身の石(意思)を投げ入れば池に"結果"と云う波が生まれ、池に映る月はその通りに一時は動き時が経てば必ず波は消え去り、再び止水の池に映る月が現れる。
原因と結果と云うのはその様にも思えますし意思と云うのも人によって様々で、自分自身の心の奥底に留めている"心に留めてもツマラン物事"だったり"ツマラン意地"とか"虚栄"であったりするわけだし、だとしたら決して浮かばれやしないと私個人としては思います。
俗世に生きる十中八九の人は自分自身の欲心が先に立つでしょうから…
もっと平たく分かり易く例えれば、パチ屋へ行って台を選んでサンドにカネを入れて打つ。
大当たりするか大損するかは先に現れるわけではなく"末のこと"
パチ屋に脚を運ぶ者は原因であって、カネをかけ時間をかけて"末に現れる"結果に挑む。
パチ屋は大当たりしようが大損しようが実際には痛くも痒くも無いわけで、前述の池の様なもんだろな。
さてと今日はこの辺にしておこうかな…
自分自身の心の働き・運び方次第によって自分自身の心と身の置き処に必ず掛かる結果の波風は荒くもなれば穏やかにもなるわけです。
結果に対して原因とは、自分自身の心の変動が無ければ波風が立たない状態、"動きの無い水・止水"でしょうけど、俗世に於いてなかなか常に心を止水の様にするには難行苦行です。
風が無い月夜の池は"原因"である自分自身の心に例えて、その池に自分自身の石(意思)を投げ入れば池に"結果"と云う波が生まれ、池に映る月はその通りに一時は動き時が経てば必ず波は消え去り、再び止水の池に映る月が現れる。
原因と結果と云うのはその様にも思えますし意思と云うのも人によって様々で、自分自身の心の奥底に留めている"心に留めてもツマラン物事"だったり"ツマラン意地"とか"虚栄"であったりするわけだし、だとしたら決して浮かばれやしないと私個人としては思います。
俗世に生きる十中八九の人は自分自身の欲心が先に立つでしょうから…
もっと平たく分かり易く例えれば、パチ屋へ行って台を選んでサンドにカネを入れて打つ。
大当たりするか大損するかは先に現れるわけではなく"末のこと"
パチ屋に脚を運ぶ者は原因であって、カネをかけ時間をかけて"末に現れる"結果に挑む。
パチ屋は大当たりしようが大損しようが実際には痛くも痒くも無いわけで、前述の池の様なもんだろな。
さてと今日はこの辺にしておこうかな…
病気はね…
私は毎月大きな大学病院に通院してます。
現在この病気に対して昔は薬もなく、薬が開発されても高価であったりと一般人には入手困難な薬であったために病気悪化のために此の世を去る人が多かったわけですが、現在は医学の発展のおかげで対応する薬がいろいろと出来て病気の完治までは現段階では不可能でも薬を飲んでさえいればほぼ普通の生活を送れるとのことです。
ココまでに読んでて何の病気なのかは薄々気づいたかと思います。
この病気は私の自業自得なのですが、主治医は”昔とはちがって糖尿病に近くなりましたね”と言ってはいました。
個人的には”自殺せず此の世を去る材料が出来た”と思っています。
幼少期よりいろいろあり過ぎてトラウマを抱えてしまい、ぶっちゃけ生きるのに嫌気がさしてたわけですけど、この病気を知った時に嫌気も何も吹っ切れたことを覚えました。
毎月通院する理由の一つとして、”どのように病気が進行し、おおよその死期はいつ頃なのか?”を自分なりに覚悟し測っています。
さて、私の病気が云々は別として、どこかで聞いている方はいるかとは思いますが、病気には身体の痛みと心の痛みが必ず二つ備わってます。
内臓疾患の場合には痛い痛くないかかわらず身体の痛みが8割、心の痛みは2割としてあります。この割数はあくまで”例えば”です。
内臓疾患においては何かの定期健診で病気のある場所が判明して病院に足を運んで医師に頼ることがあったりと様々で、手術か何かでスグ取れば治る病気もあれば、何をしようが次から次へと患ってしまう病気もあり病気によっては余命を告げられてしまうものまであります。
スグに治る病気であれば前記で記した”例えば”の割数のように心の痛みというものは少なく済むかと思いますが、大きな病やら余命宣告を受けるような病気の場合には身体の痛み以上に本人しか分からない心の痛みの方がかなり辛いと思います。
そのような境遇の患者さんに「気をしっかり持って」と励ましの言葉は逆に無意味かつ無理な言葉かと私は思います。
悪気はなく”何と言って良いのかわからないから”なんでしょうけど、私でしたら取って付けたようなセリフなんか言ってくれなくても良いです。別な意味で気が滅入りますから。
今回は大病人に焦点をあてていかにして”心の痛み”を緩和させるかを殴り書きします。
人でも動物でも生まれたからには日々”死”が先に必ずあるという条件のもとで生きてます。
動物には人と異なって明日はどうなるか何するかを考える事もなければ先にある死の観念がありません。
人には明日の予定などを立てられる事が出来たりします。動物とは異なって≪希望≫という心が人にはあります。
ですが必ず生きている保障は無く、数分後数時間後明日明後日…に生きていられる保障なんてどこにも無いのが事実なんです。ただ動物と異なって死の観念は大なり小なりは持っているわけです。
どうあって生きても必ず死を迎えるのが生きているものの決まり事です。
身体だけは徐々に衰えてゆき本来ならば土に還ります。
身体だけは衰えを覚えて死を迎えるのですが心は自身の意志一つで衰えを覚える事は無く心そのものには”死”が無いわけです。そのように自分自身で自身の心の運び方を変えれば心の痛みは改善すると思います。いや、”改善するのだ”と信じるべきです。
これは私個人のことなんですが、私は神道を心の拠り所としてますのでムダなことを考える時間があれば”六根清浄の祓い”を一人ブツブツと唱えてます。
”六根清浄の祓い”を一部抜粋します
目に諸々の不浄を見て 心に諸々の不浄を見ず
耳に諸々の不浄を聞いて 心に諸々の不浄を聞かず
鼻に諸々の不浄を嗅いで 心に諸々の不浄を嗅がず
口に諸々の不浄を語って 心に諸々の不浄を語らず
身に諸々の不浄を触れて 心に諸々の不浄を触れず
心に諸々の不浄を思いて 霊(なかご)に諸々の不浄を思わず
↑これを唱えたからといって運が善くなるといったスピリチュアル的要素は個人的には全く無いと思ってます。そのように思うのであればご存分に……
要は心の運び方と在り方です。私が”六根清浄の祓い”を唱えるのは心の平均と安定を保つための道しるべ・確認のような感じです。
生きていれば嫌な思いもせざるを得ない場面は多々あります。
”ぶち殺してやりたい!”と思うことなんか私はしょっちゅうあります(苦笑)
しかし、嫌な思いをせざるを得ない場面もぶち殺したいと思う場面などなどは、知ってか知らず知らずのうちににいちいちツマランことに心を留めてしまってた自分が”原因”となって生んで招いた”結果”なわけです。
そしてまた身体は殺してしまえばおしまいですが心は何回も殺す事は可能です。
周囲に迷惑を掛けない程度に気のすむまで殺してみてはどうでしょう。
自分の心一つで何回でも再生は可能です。横文字でいうなら”リセット”です。
もし私の目の前にガンを宣告されて暗く落ち込んでる身内がいたとするなら『ガンだなんだでいつまでもシケたツラなんか見たくない。ある意味良いチャンスだ。ウダウダと暗くなってる時間があるなら危ない国にでも行って人間ウォッチングでもしてこい』と突き放しますね。
それも私の中では”情けの内”だと思ってます。
身体の衰えや痛みと同時進行で心まで衰え病んでしまっては悪くなるものに拍車がかかるかと思います。
病人の気持ちは病人にしか分かりませんし、心を切り替えられるのは病人本人しかいません。
新たに愉しみを覚えられる心の拠り所を見つけさせる事をオススメします。
現在この病気に対して昔は薬もなく、薬が開発されても高価であったりと一般人には入手困難な薬であったために病気悪化のために此の世を去る人が多かったわけですが、現在は医学の発展のおかげで対応する薬がいろいろと出来て病気の完治までは現段階では不可能でも薬を飲んでさえいればほぼ普通の生活を送れるとのことです。
ココまでに読んでて何の病気なのかは薄々気づいたかと思います。
この病気は私の自業自得なのですが、主治医は”昔とはちがって糖尿病に近くなりましたね”と言ってはいました。
個人的には”自殺せず此の世を去る材料が出来た”と思っています。
幼少期よりいろいろあり過ぎてトラウマを抱えてしまい、ぶっちゃけ生きるのに嫌気がさしてたわけですけど、この病気を知った時に嫌気も何も吹っ切れたことを覚えました。
毎月通院する理由の一つとして、”どのように病気が進行し、おおよその死期はいつ頃なのか?”を自分なりに覚悟し測っています。
さて、私の病気が云々は別として、どこかで聞いている方はいるかとは思いますが、病気には身体の痛みと心の痛みが必ず二つ備わってます。
内臓疾患の場合には痛い痛くないかかわらず身体の痛みが8割、心の痛みは2割としてあります。この割数はあくまで”例えば”です。
内臓疾患においては何かの定期健診で病気のある場所が判明して病院に足を運んで医師に頼ることがあったりと様々で、手術か何かでスグ取れば治る病気もあれば、何をしようが次から次へと患ってしまう病気もあり病気によっては余命を告げられてしまうものまであります。
スグに治る病気であれば前記で記した”例えば”の割数のように心の痛みというものは少なく済むかと思いますが、大きな病やら余命宣告を受けるような病気の場合には身体の痛み以上に本人しか分からない心の痛みの方がかなり辛いと思います。
そのような境遇の患者さんに「気をしっかり持って」と励ましの言葉は逆に無意味かつ無理な言葉かと私は思います。
悪気はなく”何と言って良いのかわからないから”なんでしょうけど、私でしたら取って付けたようなセリフなんか言ってくれなくても良いです。別な意味で気が滅入りますから。
今回は大病人に焦点をあてていかにして”心の痛み”を緩和させるかを殴り書きします。
人でも動物でも生まれたからには日々”死”が先に必ずあるという条件のもとで生きてます。
動物には人と異なって明日はどうなるか何するかを考える事もなければ先にある死の観念がありません。
人には明日の予定などを立てられる事が出来たりします。動物とは異なって≪希望≫という心が人にはあります。
ですが必ず生きている保障は無く、数分後数時間後明日明後日…に生きていられる保障なんてどこにも無いのが事実なんです。ただ動物と異なって死の観念は大なり小なりは持っているわけです。
どうあって生きても必ず死を迎えるのが生きているものの決まり事です。
身体だけは徐々に衰えてゆき本来ならば土に還ります。
身体だけは衰えを覚えて死を迎えるのですが心は自身の意志一つで衰えを覚える事は無く心そのものには”死”が無いわけです。そのように自分自身で自身の心の運び方を変えれば心の痛みは改善すると思います。いや、”改善するのだ”と信じるべきです。
これは私個人のことなんですが、私は神道を心の拠り所としてますのでムダなことを考える時間があれば”六根清浄の祓い”を一人ブツブツと唱えてます。
”六根清浄の祓い”を一部抜粋します
目に諸々の不浄を見て 心に諸々の不浄を見ず
耳に諸々の不浄を聞いて 心に諸々の不浄を聞かず
鼻に諸々の不浄を嗅いで 心に諸々の不浄を嗅がず
口に諸々の不浄を語って 心に諸々の不浄を語らず
身に諸々の不浄を触れて 心に諸々の不浄を触れず
心に諸々の不浄を思いて 霊(なかご)に諸々の不浄を思わず
↑これを唱えたからといって運が善くなるといったスピリチュアル的要素は個人的には全く無いと思ってます。そのように思うのであればご存分に……
要は心の運び方と在り方です。私が”六根清浄の祓い”を唱えるのは心の平均と安定を保つための道しるべ・確認のような感じです。
生きていれば嫌な思いもせざるを得ない場面は多々あります。
”ぶち殺してやりたい!”と思うことなんか私はしょっちゅうあります(苦笑)
しかし、嫌な思いをせざるを得ない場面もぶち殺したいと思う場面などなどは、知ってか知らず知らずのうちににいちいちツマランことに心を留めてしまってた自分が”原因”となって生んで招いた”結果”なわけです。
そしてまた身体は殺してしまえばおしまいですが心は何回も殺す事は可能です。
周囲に迷惑を掛けない程度に気のすむまで殺してみてはどうでしょう。
自分の心一つで何回でも再生は可能です。横文字でいうなら”リセット”です。
もし私の目の前にガンを宣告されて暗く落ち込んでる身内がいたとするなら『ガンだなんだでいつまでもシケたツラなんか見たくない。ある意味良いチャンスだ。ウダウダと暗くなってる時間があるなら危ない国にでも行って人間ウォッチングでもしてこい』と突き放しますね。
それも私の中では”情けの内”だと思ってます。
身体の衰えや痛みと同時進行で心まで衰え病んでしまっては悪くなるものに拍車がかかるかと思います。
病人の気持ちは病人にしか分かりませんし、心を切り替えられるのは病人本人しかいません。
新たに愉しみを覚えられる心の拠り所を見つけさせる事をオススメします。
”結果”の生産
人は大なり小なり人と関わって一生を送るということは知っているはず。
”生まれてから死ぬまでが一番難しい”と思える一つに自分と人とのやり取りの≪人間関係≫なんですけど、日々人間は”結果”という物事を故意であれ不意であれ自分自身の行いが原因となって結果を生産しているわけ。
その結果の善し悪しとは一番の原因である自身の”行い”で決まり、結果を先に知ることが出来れば決して報われないような苦心を生む事は無い。
≪妙≫という語は細かな動きや働きという意味合いが含まれていて、人に当てはめれば縁の中でも”妙縁”と云いすべて自身の行いによって適った人との繋がりを生む。
この”妙”には二通りあって≪善妙≫と≪悪妙≫があり、分かり易い諺でざっと書いてしまえば≪類は友を呼ぶ≫となる。
正しい行いをしている者のところには善妙が働き善き縁が自然と現れ迷うことなく愉しく人生に於いて嫌気を覚える事はなく何事においても心の支えになってくれる。
勘違いや間違った行いをしている者のところには悪妙が働き悪縁が付き纏い、自分の思いが浮かばれる事はまず無くツマラン損を得るだけ。
これもまた自身の生産させた”結果”ということだ。
”生まれてから死ぬまでが一番難しい”と思える一つに自分と人とのやり取りの≪人間関係≫なんですけど、日々人間は”結果”という物事を故意であれ不意であれ自分自身の行いが原因となって結果を生産しているわけ。
その結果の善し悪しとは一番の原因である自身の”行い”で決まり、結果を先に知ることが出来れば決して報われないような苦心を生む事は無い。
≪妙≫という語は細かな動きや働きという意味合いが含まれていて、人に当てはめれば縁の中でも”妙縁”と云いすべて自身の行いによって適った人との繋がりを生む。
この”妙”には二通りあって≪善妙≫と≪悪妙≫があり、分かり易い諺でざっと書いてしまえば≪類は友を呼ぶ≫となる。
正しい行いをしている者のところには善妙が働き善き縁が自然と現れ迷うことなく愉しく人生に於いて嫌気を覚える事はなく何事においても心の支えになってくれる。
勘違いや間違った行いをしている者のところには悪妙が働き悪縁が付き纏い、自分の思いが浮かばれる事はまず無くツマラン損を得るだけ。
これもまた自身の生産させた”結果”ということだ。
現在の”老人”事情
あくまで客観なんですけど戦時中ガキで現在の老人はワガママだと思う。
玉音放送で流れた”堪え難きを耐え…”を実際に堪え忍んだのは現在90才以上で、80才以下は当時の日本の情勢を全くと言ってもいいほどほとんど知ることなく大半は疎開して疎開先で虐められただの、飢えと家族との死に別れなどを経験した云々で辛い思いした反動だろうか豊かになり過ぎた現在に於いては変な我慢は出来ても辛抱が出来てないように思えてくるのは私だけなんだろうかね。
かなり昔(30年前?)にテレビのCMか何かで”お年寄りを大切にしよう!!”みたいなセリフがあったような気がするけど、考えてみれば当時の”お年寄り”と言われる世代は大戦前から生きてた人で、その”お年寄り”が現在でも生きていれば余裕で90才は過ぎているわけで「大切にしよう!!」と言える存在価値は一番にある。
余裕で90才を過ぎてる老人と85才未満の老人とでは感覚的な意味合いが異なってくるね。
元気なことに越したことはない。
でもね、杖を武器のように持ってママチャリ漕いで通行人を威嚇するのってどうかと思うんだよねぇ……(;´・ω・)
玉音放送で流れた”堪え難きを耐え…”を実際に堪え忍んだのは現在90才以上で、80才以下は当時の日本の情勢を全くと言ってもいいほどほとんど知ることなく大半は疎開して疎開先で虐められただの、飢えと家族との死に別れなどを経験した云々で辛い思いした反動だろうか豊かになり過ぎた現在に於いては変な我慢は出来ても辛抱が出来てないように思えてくるのは私だけなんだろうかね。
かなり昔(30年前?)にテレビのCMか何かで”お年寄りを大切にしよう!!”みたいなセリフがあったような気がするけど、考えてみれば当時の”お年寄り”と言われる世代は大戦前から生きてた人で、その”お年寄り”が現在でも生きていれば余裕で90才は過ぎているわけで「大切にしよう!!」と言える存在価値は一番にある。
余裕で90才を過ぎてる老人と85才未満の老人とでは感覚的な意味合いが異なってくるね。
元気なことに越したことはない。
でもね、杖を武器のように持ってママチャリ漕いで通行人を威嚇するのってどうかと思うんだよねぇ……(;´・ω・)
”願い事”の叶わせ方
何もカネ払ってまで海のモノだか山のモノだか得体の知れないアクセサリーなんか買って身に着けなくたって”願い事”というのはこの条件を守っていれば氷山が徐々に溶けていくように自然に叶います。
アクセサリーだのグッズだの買って開運だの信じる方は存分に買えば良いでしょう。
”鰯の頭も信心から”と言いますので好きにすれば良いのですが、個人的に見かけるたびに内心でぶっちゃけ”気の毒に…”とは思ってます。
条件①毎月1日・15日と自分の生まれた日にちに住んでる土地に古くから祀ってある神社に足を運んで参拝し神願をすること。この時に自分一人で参拝しているのだとは思わず、自分につながる祖先の御霊も共に参拝しているのだと思うこと。
条件②神社といえども生死怨霊魂魄などの邪鬼が野次馬のようにいるので、あわよくば人の願い事を神様以前に見たい・聞きたい・食いつきたいと待っているので”自我の欲は願わないこと”
そのような邪な者の前には神様は神社であっても御出座しにならないため、その神様の代わりに邪鬼が”逆に”叶えてしまうと思うこと。
条件③どの方向が良いだの悪いだのを拘らず自宅もしくは部屋に神様と御先祖様をお祀りするスペースを目線より高い位置に祀り、参拝する際に1合桝にいくらでも良いので三十日を満期と決めて御賽銭を納めて、三十日満期になったらその御賽銭をお下げさせて頂いて友人などといった自分に関わる人に日々の御賽銭だとは口に出さずに振る舞うこと。自分の為ではなく人の為に使うこと。
これ以上の条件もあるけどココまでにしといて、先ずはこの3つの条件をコツコツと実践してみれば自然と変化が必ず現れます。あまりにも自然なために気づかないかと思う。
ちなみに条件③の神様と御先祖様をお祀りするスペースにおいて何処の神社の御札がいるか云々となるかと思いますが、条件①のように毎月参拝に行っているのであれば特別に御札は必要ないと個人的には思います。
御先祖様が何だか分からない場合は、白い紙に右側に父方の姓を左側に母方の姓を記しその下中央に大先祖霊神と記して祀れば良いと思います。
ただ祀ったのであれば粗末にはせず、自分が起きて身支度を済ませて食事を摂る前に神様と御先祖様には最低でも御水を御供えしましょうね。
アクセサリーだのグッズだの買って開運だの信じる方は存分に買えば良いでしょう。
”鰯の頭も信心から”と言いますので好きにすれば良いのですが、個人的に見かけるたびに内心でぶっちゃけ”気の毒に…”とは思ってます。
条件①毎月1日・15日と自分の生まれた日にちに住んでる土地に古くから祀ってある神社に足を運んで参拝し神願をすること。この時に自分一人で参拝しているのだとは思わず、自分につながる祖先の御霊も共に参拝しているのだと思うこと。
条件②神社といえども生死怨霊魂魄などの邪鬼が野次馬のようにいるので、あわよくば人の願い事を神様以前に見たい・聞きたい・食いつきたいと待っているので”自我の欲は願わないこと”
そのような邪な者の前には神様は神社であっても御出座しにならないため、その神様の代わりに邪鬼が”逆に”叶えてしまうと思うこと。
条件③どの方向が良いだの悪いだのを拘らず自宅もしくは部屋に神様と御先祖様をお祀りするスペースを目線より高い位置に祀り、参拝する際に1合桝にいくらでも良いので三十日を満期と決めて御賽銭を納めて、三十日満期になったらその御賽銭をお下げさせて頂いて友人などといった自分に関わる人に日々の御賽銭だとは口に出さずに振る舞うこと。自分の為ではなく人の為に使うこと。
これ以上の条件もあるけどココまでにしといて、先ずはこの3つの条件をコツコツと実践してみれば自然と変化が必ず現れます。あまりにも自然なために気づかないかと思う。
ちなみに条件③の神様と御先祖様をお祀りするスペースにおいて何処の神社の御札がいるか云々となるかと思いますが、条件①のように毎月参拝に行っているのであれば特別に御札は必要ないと個人的には思います。
御先祖様が何だか分からない場合は、白い紙に右側に父方の姓を左側に母方の姓を記しその下中央に大先祖霊神と記して祀れば良いと思います。
ただ祀ったのであれば粗末にはせず、自分が起きて身支度を済ませて食事を摂る前に神様と御先祖様には最低でも御水を御供えしましょうね。
原因と結果について
①”原因”というのは”結果”という流れを知って観る事はあっても、十中八九は灯台下暗しの如く”自分が原因”であり”結果”を生産していることに気付かない。観えてない。
②自分自身の”行い”が先に立って先々の流れをどんどん生産するわけで、先に立たせた”行い”一つの判断で善くもなれば悪くもなり此れを≪自業自得の損徳≫というんだろね。
②自分自身の”行い”が先に立って先々の流れをどんどん生産するわけで、先に立たせた”行い”一つの判断で善くもなれば悪くもなり此れを≪自業自得の損徳≫というんだろね。
様々な”因果応報”と”自業自得”
”因果応報”だとか”自業自得”といった単語を出すと大体はマイナスなことが浮かぶんだろなと思う。マイナスのことのみ浮かぶ人はどのように学んだのかは知らん。極力”莫迦”は相手にしたくない。
今回はそんな莫迦の思う”マイナス”なところに焦点を当てての殴り書き。
愚痴を含んだ相談事を聞かされてウンザリしていることが3つあり、一つは旦那やカミさんに関する愚痴、二つに息子や娘に関する愚痴、三つに職場の上司や部下または知人や友人に関する愚痴。
かくいう私も腐っても此の世に生かされてる人間なので、愚痴は全く無いわけではなく、人に対する愚痴は殆どなく自分自身に関する愚痴なので人に言って聞かせても”性分・癖”みたいなもんなので解決するようなものではないかと思う。
なるべく他人に迷惑をかけずに墓場まで持っていくしかない。
さて、この愚痴を含んだ相談を聞かされてウンザリする3つの愚痴の中で、他人に関しての愚痴をこぼしてる人間で大概の人って”自分が原因”だということに気付いてなかったりする。で、相手によっては”原因はアンタだよ”と指摘すると怒りだす場合ってあるんだわ……
人って”ホントのことを他人に言われると怒りだす”とは聞いてはいたけど、ア然としてしまうほど実際にあり現在でもある。わざわざコチラに相談を持ってきておいて…
相談を振ったのであれば、意見を基にして建設的に取り組み解決の糸口を自分で見出す努力をするのであれば何ら問題は無い。
一概に断言することは難しいけど粗方は、原因が結果となって実を結んで原因が愚痴を吐く種になっているだけのことなんだけどね。
”結果”が先に立ってたらある意味に於いては愚痴をこぼす事はなければ苦心も無い。
今回はそんな莫迦の思う”マイナス”なところに焦点を当てての殴り書き。
愚痴を含んだ相談事を聞かされてウンザリしていることが3つあり、一つは旦那やカミさんに関する愚痴、二つに息子や娘に関する愚痴、三つに職場の上司や部下または知人や友人に関する愚痴。
かくいう私も腐っても此の世に生かされてる人間なので、愚痴は全く無いわけではなく、人に対する愚痴は殆どなく自分自身に関する愚痴なので人に言って聞かせても”性分・癖”みたいなもんなので解決するようなものではないかと思う。
なるべく他人に迷惑をかけずに墓場まで持っていくしかない。
さて、この愚痴を含んだ相談を聞かされてウンザリする3つの愚痴の中で、他人に関しての愚痴をこぼしてる人間で大概の人って”自分が原因”だということに気付いてなかったりする。で、相手によっては”原因はアンタだよ”と指摘すると怒りだす場合ってあるんだわ……
人って”ホントのことを他人に言われると怒りだす”とは聞いてはいたけど、ア然としてしまうほど実際にあり現在でもある。わざわざコチラに相談を持ってきておいて…
相談を振ったのであれば、意見を基にして建設的に取り組み解決の糸口を自分で見出す努力をするのであれば何ら問題は無い。
一概に断言することは難しいけど粗方は、原因が結果となって実を結んで原因が愚痴を吐く種になっているだけのことなんだけどね。
”結果”が先に立ってたらある意味に於いては愚痴をこぼす事はなければ苦心も無い。
”鬼畜”
甘利大臣が辞任にいたるまで話は一部始終じっくり聞いてみて、何はともあれ"大人として潔く辞任"をしたなと立派に思う。
何はともあれ"立派に辞任"した大人に対して案の定ガタガタ騒ぐアホがいるわけだが、だったら虐待したコイツは何なんだと聞きたいもんだよ。
床に包丁、4階から「飛び降りろ」…3歳虐待死
”大臣とは別問題だろ、法が裁く"だ?
あのさぁ、生憎この子は大人の都合によって、大人の歪んだ感情によって"虐待の挙句に殺された"も同然であって、こんな鬼畜な大人なんか氷山の一角なんだよ。
コッチから言わせちゃ、事情はどうあれ母親も母親で同罪だわ。
チンピラのバシタか!このズベ公が?
松本清張の映画で"鬼畜"があり、最後のシーンで父親に殺されかけた息子が発する"ある意味"有名なセリフがあって個人的には忘れられないが、この映画が実話なら子供は死ぬまで親に虐待された時のトラウマを背負って生きるかもしれないよ。(実話に基づく映画とのこと)
※松本清張”鬼畜”wiki
大人同士の殴り合いに発展させるような喧嘩を、ましてや夫婦間の喧嘩を小さな子の目の前で見せてしまえば、まだ何にも知らない子供にとっちゃトラウマを心に刻み込んで一生を送るハメになって、住む家・帰る家があっても"安心して心が置ける場所"がなくなったりしたらどう責任を取るんだ?
子供がPTSDにでもなってしまえば責任なんて取れるはずなんかない。
大人には子供の視点になって物事を判断する力が乏しく、「ごめんね」じゃ済まない場合もあるわけだよ。
親戚なんて良い加減なもんで都合の悪いことになりゃ逃げるよ。コレはあくまで”ウチ”の場合ですけど。
親の喧嘩は殆ど見たこと無いが、家庭内で高3の始めのころに親が此の世を去るまで、また卒業して上京するまで似たような目に遭ってるあるから尚更怒りを覚える以上に、相手が"ヤクザ"なら"一般人"として同じ苦しみ以上を味合わせたい。シロートかつ性格がミョーに破綻してる者ほど冷酷なもんはない。
何はともあれ"立派に辞任"した大人に対して案の定ガタガタ騒ぐアホがいるわけだが、だったら虐待したコイツは何なんだと聞きたいもんだよ。
床に包丁、4階から「飛び降りろ」…3歳虐待死
”大臣とは別問題だろ、法が裁く"だ?
あのさぁ、生憎この子は大人の都合によって、大人の歪んだ感情によって"虐待の挙句に殺された"も同然であって、こんな鬼畜な大人なんか氷山の一角なんだよ。
コッチから言わせちゃ、事情はどうあれ母親も母親で同罪だわ。
チンピラのバシタか!このズベ公が?
松本清張の映画で"鬼畜"があり、最後のシーンで父親に殺されかけた息子が発する"ある意味"有名なセリフがあって個人的には忘れられないが、この映画が実話なら子供は死ぬまで親に虐待された時のトラウマを背負って生きるかもしれないよ。(実話に基づく映画とのこと)
※松本清張”鬼畜”wiki
大人同士の殴り合いに発展させるような喧嘩を、ましてや夫婦間の喧嘩を小さな子の目の前で見せてしまえば、まだ何にも知らない子供にとっちゃトラウマを心に刻み込んで一生を送るハメになって、住む家・帰る家があっても"安心して心が置ける場所"がなくなったりしたらどう責任を取るんだ?
子供がPTSDにでもなってしまえば責任なんて取れるはずなんかない。
大人には子供の視点になって物事を判断する力が乏しく、「ごめんね」じゃ済まない場合もあるわけだよ。
親戚なんて良い加減なもんで都合の悪いことになりゃ逃げるよ。コレはあくまで”ウチ”の場合ですけど。
親の喧嘩は殆ど見たこと無いが、家庭内で高3の始めのころに親が此の世を去るまで、また卒業して上京するまで似たような目に遭ってるあるから尚更怒りを覚える以上に、相手が"ヤクザ"なら"一般人"として同じ苦しみ以上を味合わせたい。シロートかつ性格がミョーに破綻してる者ほど冷酷なもんはない。
神様(仏様)と御先祖様はセットで…
前回の内容で少々化けの皮が剥がれた…いや、生まれ育った環境が”鳥居のある環境”だったんで板に付いちゃってるというのかな…
最初に伝えておくけど、特定の宗教団体をよっぽどではないかぎり批判などはしません。
ちなみに現在は、基本は何ら一般人とは変わりはないけど、何かの縁で相談事などを受けて心が安心する方向に持っていかせたり、依頼があれば屋敷の方角を鑑定したりとまぁ、それでも親がやってたことの半分もやってません。
今回のお題 ”神様(仏様)と御先祖様はセットで” なんですけど、一般の方って正月元旦には神社やお寺に初詣、子供がいる家庭では初宮参り・七五三・成人式(?)などなどで足を運ぶ人が多いかと思います。
拝殿前(賽銭箱がある社)で何を祈願してるのかは十中八九の人は”欲望”が含まれた願望だとは思いますが…(苦笑)
(細かく説明したいけど今回は端折りますが)それでも神様は足を運ぶ事によって大変お喜びになります。
たとえるなら、子供が育って親元へ帰省すると思ってみてはいかがでしょうかね?
神様からすれば、人はいくつになろうが”子供”なんです。
そしてお彼岸やお盆になれば御先祖様の墓参りと足を運ぶ人は多いかと思います。
誰かの歌で”私のお墓の前で……そこに私はいません”というのがありますが、≪故人を改めて意識する場所≫または≪御先祖様が存在して自分が現在存在しているのだ≫と崇める心を向ければ御先祖様の御霊はその場に天降るということを信じなければ墓という物体は記念碑みたいな存在に過ぎません。このように言ってもあくまで個人的な感覚なんですけど。
神道は”敬神崇祖”の精神がはじめにあります。
この”敬神崇祖”とは≪自分の元の主(あるじ・親)である神様を敬い自分につながる祖先を崇め、死ぬまで忘れてはならないと子々孫々に渡って教え伝えなさい≫とザックリと説明するとこんな感じです。
人が平穏無事に生活が出来得てるのは元の主である神様のお働きをはじめ、父方・母方の御先祖様が神様に対し人の世界でいうところの”弁護士”のようなお働きを貴方が死ぬまで神様に頼み込んでくれているわけです。
人は”欲望”という心が先に立って、知らず知らずのうちに大小問わず悪事を犯してしまうことがあります。
生きてる人間は自分が知らず知らずのうちに罪を犯してるなんて気付いてませんが、裏の御先祖様は”うわ!このアホ!!”と頭を抱え込みます。
その際に裏の御先祖様は表の生きてる自分の子孫に対して此の世の何かに働き掛けてドツくわけです。
ドツかれた際に表の子孫は自分のしたことに気付けば良いんですけど、やっぱり”欲望”が先に立ってしまうのか何も無いような道で転んだとしたら「偶々(たまたま)転んだ」と片付けてしまいます。この偶数の”偶”という文字を使った≪偶々(たまたま)≫というのは御先祖様のお働きだと思って間違いないんです。対する奇数の”奇”という文字を使った≪奇妙≫とは神様のお働きだと思って間違いないです。(これも個人的な意見です)
この御先祖様が死んでも裏で子孫のために働いてくれているのは元の主である神様との太いパイプがあるからです。
よっぽどでもない限り、ある程度は子孫たちのことを神様は任せているわけです。
死んだら極楽なのか地獄なのかは現在此の世に生かされている表の子孫の行い一つだろうと思います。
ところが子孫が”敬神崇祖”の精神を忘れてしまうと、神様と御先祖様との距離が遠く離れていってしまうのです。
一番困るのは神様ではなく御先祖様なんです。
なんで一番困るのかというのは、人が寝ている間に神様にホウレンソウ(報告・連絡・相談)をしているのだと例えれば妥当かなとは思うんですが、神様という存在は此の世の総てをご統括なさってる人間よりも何よりも位が上で、此の世を再生しようが破壊しようがどうとでも扱える左右させる存在ゆえ、ご先祖様は生きてる人間が忘れてしまえば草葉の陰で叱ったりドツいたりして助けることが難儀になり、子孫の行いを神様に報告などを奏上することが難しくなってしまいます。
相手は神様なのでウソでも良い報告をしたくても、虚偽の報告などをすれば人の世界と似たように罰せられるのは当然のように思います。
御先祖様は手の施しようがなくなってしまい子孫は時間の問題で刻々と思いもよらぬ難儀に遭ってしまうわけです。
本来ならば助かるような物事でも、場合によっては命取りになる時もあるわけです。(これも個人的な見解でもあり、親から伝わる言い伝えでもあります)
なので、私は「欲心を捨てろ」と言ってしまえ一般人にとってはばかなり難行でしょうから”欲心があるなら一時は離れて考えてみな”とか”欲心を少なくしてみたら?”と提案しています。
人は欲心が深いほど自分で自分の首を絞めてます。欲望で躓きます。コレは欲に束縛されているからでもあるんです。
そこで裏にいる御先祖様は此の世にある様々なものを通したり、または人の心に働きかけたりして”このバカチンが!!”とドツくわけです。例えるならば、金八先生(武田鉄矢)が裏にいるとでも思ってみてください(苦笑)
これは御先祖様の負担を減らすための問題でもある。
御先祖様は父方・母方とあるのから生きてる者の責任は大きいのです。
「個人の勝手じゃん!」というのであれば誰も止めはしませんので好き勝手に生きてみれば良いでんす。
その方がいろ~~~んな事にぶち当たり、場合によってはそこで”何かを得る”という事もあるわけですから。
ならば特別に宗教に入信して云々しろとは私は言いません。
かえって入信したらしたで宗教にだけに振り回されるでしょうから。
旧ソ連共産党指導者のレーニン(だったかな?)は”宗教は毒だ”と言う理由はある意味に於いてはビンゴです。
現在の日本人は過去に様々なことがあったり、ネットでもいろいろと知る時代になったおかげで宗教を疑う人が多くなったかと思います。
人の価値観の問題なんで押し付けるような言葉は避けたいのですが、何も既成の宗教にわざわざ入信しなくても良いので、お住まいにある神社または寺社へ毎月足を運んで参拝して、普段の生活においては神様が先に立って御先祖様がいて自分が現在存在していることを忘れないためにも部屋の一角に御先祖様を意識するスペースを置いてみることをオススメします。
神社へ行けば”神願”であります。お寺さんは神願に同じように感じますが実は”霊願”なので、御先祖様が神様へ向かい報告などをする際に諸仏などに御知恵を拝借するようなところに思います。
しかし、神社にも2通りあり”諸々を固め修めた神様”と”世の為人の為に何らかの偉業を成して死んだ人の霊と何らかの怨霊を鎮めた”という2通りあります。
なので一般人でも分かるように神社には何が祀ってあるのかといった立て看板などがあるわけです。
ちなみに人の霊を祀った神社であっても奥には諸々を固め修めた神様が合祀されているはずです。
神社へ参拝に行った際において神様の前に神願をしているのは、現在生かされている此の世の者(表の者)と現在の自分につながる御先祖様(裏の者)とが合わさって神前に神願しているわけです。
普段平穏無事に生活を送れていられるのは、初めに神様のおかげと二番目に御先祖様のおかげもあるんです。
コレをたとえて言うならば、神様の働きが頭ならば御先祖様は首の働きなのだと言えば分かり易いかな……
なので、神様(仏様)と御先祖様は”セット”で忘れず心を向けて生活を送れば良いよ……っつー私個人の意見でございます。
神道においての敬神崇祖を導き出すお話しでした~!デメタシデメタシw
最初に伝えておくけど、特定の宗教団体をよっぽどではないかぎり批判などはしません。
ちなみに現在は、基本は何ら一般人とは変わりはないけど、何かの縁で相談事などを受けて心が安心する方向に持っていかせたり、依頼があれば屋敷の方角を鑑定したりとまぁ、それでも親がやってたことの半分もやってません。
今回のお題 ”神様(仏様)と御先祖様はセットで” なんですけど、一般の方って正月元旦には神社やお寺に初詣、子供がいる家庭では初宮参り・七五三・成人式(?)などなどで足を運ぶ人が多いかと思います。
拝殿前(賽銭箱がある社)で何を祈願してるのかは十中八九の人は”欲望”が含まれた願望だとは思いますが…(苦笑)
(細かく説明したいけど今回は端折りますが)それでも神様は足を運ぶ事によって大変お喜びになります。
たとえるなら、子供が育って親元へ帰省すると思ってみてはいかがでしょうかね?
神様からすれば、人はいくつになろうが”子供”なんです。
そしてお彼岸やお盆になれば御先祖様の墓参りと足を運ぶ人は多いかと思います。
誰かの歌で”私のお墓の前で……そこに私はいません”というのがありますが、≪故人を改めて意識する場所≫または≪御先祖様が存在して自分が現在存在しているのだ≫と崇める心を向ければ御先祖様の御霊はその場に天降るということを信じなければ墓という物体は記念碑みたいな存在に過ぎません。このように言ってもあくまで個人的な感覚なんですけど。
神道は”敬神崇祖”の精神がはじめにあります。
この”敬神崇祖”とは≪自分の元の主(あるじ・親)である神様を敬い自分につながる祖先を崇め、死ぬまで忘れてはならないと子々孫々に渡って教え伝えなさい≫とザックリと説明するとこんな感じです。
人が平穏無事に生活が出来得てるのは元の主である神様のお働きをはじめ、父方・母方の御先祖様が神様に対し人の世界でいうところの”弁護士”のようなお働きを貴方が死ぬまで神様に頼み込んでくれているわけです。
人は”欲望”という心が先に立って、知らず知らずのうちに大小問わず悪事を犯してしまうことがあります。
生きてる人間は自分が知らず知らずのうちに罪を犯してるなんて気付いてませんが、裏の御先祖様は”うわ!このアホ!!”と頭を抱え込みます。
その際に裏の御先祖様は表の生きてる自分の子孫に対して此の世の何かに働き掛けてドツくわけです。
ドツかれた際に表の子孫は自分のしたことに気付けば良いんですけど、やっぱり”欲望”が先に立ってしまうのか何も無いような道で転んだとしたら「偶々(たまたま)転んだ」と片付けてしまいます。この偶数の”偶”という文字を使った≪偶々(たまたま)≫というのは御先祖様のお働きだと思って間違いないんです。対する奇数の”奇”という文字を使った≪奇妙≫とは神様のお働きだと思って間違いないです。(これも個人的な意見です)
この御先祖様が死んでも裏で子孫のために働いてくれているのは元の主である神様との太いパイプがあるからです。
よっぽどでもない限り、ある程度は子孫たちのことを神様は任せているわけです。
死んだら極楽なのか地獄なのかは現在此の世に生かされている表の子孫の行い一つだろうと思います。
ところが子孫が”敬神崇祖”の精神を忘れてしまうと、神様と御先祖様との距離が遠く離れていってしまうのです。
一番困るのは神様ではなく御先祖様なんです。
なんで一番困るのかというのは、人が寝ている間に神様にホウレンソウ(報告・連絡・相談)をしているのだと例えれば妥当かなとは思うんですが、神様という存在は此の世の総てをご統括なさってる人間よりも何よりも位が上で、此の世を再生しようが破壊しようがどうとでも扱える左右させる存在ゆえ、ご先祖様は生きてる人間が忘れてしまえば草葉の陰で叱ったりドツいたりして助けることが難儀になり、子孫の行いを神様に報告などを奏上することが難しくなってしまいます。
相手は神様なのでウソでも良い報告をしたくても、虚偽の報告などをすれば人の世界と似たように罰せられるのは当然のように思います。
御先祖様は手の施しようがなくなってしまい子孫は時間の問題で刻々と思いもよらぬ難儀に遭ってしまうわけです。
本来ならば助かるような物事でも、場合によっては命取りになる時もあるわけです。(これも個人的な見解でもあり、親から伝わる言い伝えでもあります)
なので、私は「欲心を捨てろ」と言ってしまえ一般人にとってはばかなり難行でしょうから”欲心があるなら一時は離れて考えてみな”とか”欲心を少なくしてみたら?”と提案しています。
人は欲心が深いほど自分で自分の首を絞めてます。欲望で躓きます。コレは欲に束縛されているからでもあるんです。
そこで裏にいる御先祖様は此の世にある様々なものを通したり、または人の心に働きかけたりして”このバカチンが!!”とドツくわけです。例えるならば、金八先生(武田鉄矢)が裏にいるとでも思ってみてください(苦笑)
これは御先祖様の負担を減らすための問題でもある。
御先祖様は父方・母方とあるのから生きてる者の責任は大きいのです。
「個人の勝手じゃん!」というのであれば誰も止めはしませんので好き勝手に生きてみれば良いでんす。
その方がいろ~~~んな事にぶち当たり、場合によってはそこで”何かを得る”という事もあるわけですから。
ならば特別に宗教に入信して云々しろとは私は言いません。
かえって入信したらしたで宗教にだけに振り回されるでしょうから。
旧ソ連共産党指導者のレーニン(だったかな?)は”宗教は毒だ”と言う理由はある意味に於いてはビンゴです。
現在の日本人は過去に様々なことがあったり、ネットでもいろいろと知る時代になったおかげで宗教を疑う人が多くなったかと思います。
人の価値観の問題なんで押し付けるような言葉は避けたいのですが、何も既成の宗教にわざわざ入信しなくても良いので、お住まいにある神社または寺社へ毎月足を運んで参拝して、普段の生活においては神様が先に立って御先祖様がいて自分が現在存在していることを忘れないためにも部屋の一角に御先祖様を意識するスペースを置いてみることをオススメします。
神社へ行けば”神願”であります。お寺さんは神願に同じように感じますが実は”霊願”なので、御先祖様が神様へ向かい報告などをする際に諸仏などに御知恵を拝借するようなところに思います。
しかし、神社にも2通りあり”諸々を固め修めた神様”と”世の為人の為に何らかの偉業を成して死んだ人の霊と何らかの怨霊を鎮めた”という2通りあります。
なので一般人でも分かるように神社には何が祀ってあるのかといった立て看板などがあるわけです。
ちなみに人の霊を祀った神社であっても奥には諸々を固め修めた神様が合祀されているはずです。
神社へ参拝に行った際において神様の前に神願をしているのは、現在生かされている此の世の者(表の者)と現在の自分につながる御先祖様(裏の者)とが合わさって神前に神願しているわけです。
普段平穏無事に生活を送れていられるのは、初めに神様のおかげと二番目に御先祖様のおかげもあるんです。
コレをたとえて言うならば、神様の働きが頭ならば御先祖様は首の働きなのだと言えば分かり易いかな……
なので、神様(仏様)と御先祖様は”セット”で忘れず心を向けて生活を送れば良いよ……っつー私個人の意見でございます。
神道においての敬神崇祖を導き出すお話しでした~!デメタシデメタシw
タグ:信仰
してはならないこと
昨日一昨日から風邪で咳込みながら、ちょっとした事を知り親の遺影をいつも以上に観てイライラしてました。
片や神道家、片や観光会社の添乗員の仕事に就いてた二足の草鞋で一生を終えた父や母(とくに母)から厳しく仕付けられたことなんですけど、”してはならないこと”として≪神様や仏様で商売をしてはいけない≫または≪神様(仏様)を使って食い物にしてはならない≫と物凄く厳しく仕付けられました。
はなから商売人なら神像だろうが御神体、または仏像などを売るなら構わないのかも知れない。
これが多少たりとも神道・仏道その他を知った人間が "いくら" と金額設定して売るというのは個人的には如何なものかと思う。
ましてや、神職・住職などといった宗教家または何かを信仰する者だとしたら禁じ手だと断言しますが、”好きにやすりゃ良いんぢゃねーの?”と呆れ返ってます。
妬みでも僻みでも何でもなく、必ず先々に買った側にも売った側にもトラブルが起きるからなんです。その他の意味合いもありますが、" あえて "記しません。
善かれと思って売れば仇となって返り子々孫々に渡って余計な苦難を得るハメになり、きちんとした心構えもなくただ安易な心で御利益が頂ける、または何らかのパワーがもらえると思って買えば一時は良くなったかのように感じることはあったとしても誤った利益を得ることになります。
たしかに神社でもお寺さんにでも行くと社務所に御守や御札、グッズなどが売ってますが、収入のほとんどが神社やお寺さんの管理費等に行き渡ります。
ちょっと俗世の話にそれますが、宗教法人である宗教団体が宗教のために金銭を使用するには何ら問題はありませんが、神職などの宗教家が個人で使用する場合に於いては所得税などといった税金を納税する義務が発生し、これをごまかして申告をしてしまえば宗教団体は大変な事になりますし、現在は公安が厳しく宗教団体をチェックしてます。
まったく宗教団体とは関係なく、あたかも宗教とつながってるかのように個人で商売しているのであれば≪商売≫なのでキチンと税務署に申告をしなくてはいけません。これが宗教団体に所属している者なら宗教本部の意向なしで勝手に販売は出来ません。
神社神道ならば神社本庁(単立は除く)、教派神道ならば各教団の本部になります。
寺院であれば寺院宗派の本拠地です。
言い方を変えれば宗教も元締・胴元がいるわけです。
御守や御札、グッズにしても問屋から注文して買ってますから、問屋に納める分ももちろん発生してます。
神社本庁に統括している神社ならばことのほか大変だと思います。否が応でも伊勢神宮より≪天照皇大神宮≫と≪豊受大神宮≫の札を受けなくてはならないので、そこでも納めなくてはならないわけです。
伊勢神宮(内宮外宮)は一か年に渡って様々な祭事があり、二十年に一度の式年遷宮祭などがありますからね…
それら御守などを受けるのであれば、あやふやな心で受けるのではなく受けるところの神様または仏様に対しての礼儀をシッカリともって受けて頂きたいと思います。
厳しく言ってしまえば≪受けたのであれば尚更今まで以上に、神仏を敬う心をはじめ祖先を崇める心を忘れてはならない≫ということです。
※御守・御札・グッズ…様々なものが社務所で販売されているので大体の人は”買った”と言う人がいますが本来は≪受けた≫と言うのが正しいです。そして”カネを払う”と言うのではなく”納めた”と言うのが正しいです。御祈祷にしても≪御祈祷を受ける≫が正解で”祓ってもらう”というのは個人的には「あんだってぇ??」と言いたくなります。
片や神道家、片や観光会社の添乗員の仕事に就いてた二足の草鞋で一生を終えた父や母(とくに母)から厳しく仕付けられたことなんですけど、”してはならないこと”として≪神様や仏様で商売をしてはいけない≫または≪神様(仏様)を使って食い物にしてはならない≫と物凄く厳しく仕付けられました。
はなから商売人なら神像だろうが御神体、または仏像などを売るなら構わないのかも知れない。
これが多少たりとも神道・仏道その他を知った人間が "いくら" と金額設定して売るというのは個人的には如何なものかと思う。
ましてや、神職・住職などといった宗教家または何かを信仰する者だとしたら禁じ手だと断言しますが、”好きにやすりゃ良いんぢゃねーの?”と呆れ返ってます。
妬みでも僻みでも何でもなく、必ず先々に買った側にも売った側にもトラブルが起きるからなんです。その他の意味合いもありますが、" あえて "記しません。
善かれと思って売れば仇となって返り子々孫々に渡って余計な苦難を得るハメになり、きちんとした心構えもなくただ安易な心で御利益が頂ける、または何らかのパワーがもらえると思って買えば一時は良くなったかのように感じることはあったとしても誤った利益を得ることになります。
たしかに神社でもお寺さんにでも行くと社務所に御守や御札、グッズなどが売ってますが、収入のほとんどが神社やお寺さんの管理費等に行き渡ります。
ちょっと俗世の話にそれますが、宗教法人である宗教団体が宗教のために金銭を使用するには何ら問題はありませんが、神職などの宗教家が個人で使用する場合に於いては所得税などといった税金を納税する義務が発生し、これをごまかして申告をしてしまえば宗教団体は大変な事になりますし、現在は公安が厳しく宗教団体をチェックしてます。
まったく宗教団体とは関係なく、あたかも宗教とつながってるかのように個人で商売しているのであれば≪商売≫なのでキチンと税務署に申告をしなくてはいけません。これが宗教団体に所属している者なら宗教本部の意向なしで勝手に販売は出来ません。
神社神道ならば神社本庁(単立は除く)、教派神道ならば各教団の本部になります。
寺院であれば寺院宗派の本拠地です。
言い方を変えれば宗教も元締・胴元がいるわけです。
御守や御札、グッズにしても問屋から注文して買ってますから、問屋に納める分ももちろん発生してます。
神社本庁に統括している神社ならばことのほか大変だと思います。否が応でも伊勢神宮より≪天照皇大神宮≫と≪豊受大神宮≫の札を受けなくてはならないので、そこでも納めなくてはならないわけです。
伊勢神宮(内宮外宮)は一か年に渡って様々な祭事があり、二十年に一度の式年遷宮祭などがありますからね…
それら御守などを受けるのであれば、あやふやな心で受けるのではなく受けるところの神様または仏様に対しての礼儀をシッカリともって受けて頂きたいと思います。
厳しく言ってしまえば≪受けたのであれば尚更今まで以上に、神仏を敬う心をはじめ祖先を崇める心を忘れてはならない≫ということです。
※御守・御札・グッズ…様々なものが社務所で販売されているので大体の人は”買った”と言う人がいますが本来は≪受けた≫と言うのが正しいです。そして”カネを払う”と言うのではなく”納めた”と言うのが正しいです。御祈祷にしても≪御祈祷を受ける≫が正解で”祓ってもらう”というのは個人的には「あんだってぇ??」と言いたくなります。
タグ:宗教
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